昭和42年02月15日 夜の御理解



 昨日から、いよいよ、検定試験も、私の検定試験が近づいて参りましたから、あちらの参考資料に送って頂いておる資料をもとにして、合間合間の時間を頂いてから、勉強さして頂いとりますけれども、根が好きですから、もう本当に楽しゅうて楽しゅうてたまらんという気が致します。私は学問をする人達、勉強する人達はが、やはりあの、勉強が楽しゅうならなければ駄目だと思うですね。
 今日も又勉強せんならん、これではもう値打ちがない、信心さして頂く者でもそうです、やはり勉強が大事ですね。しかも、それが楽しゅうてたまらん、けれども、私が思いますことは、只、勉強が出来たというのでは出来ませんから、その勉強さして頂きながら思うんです。あんなに沢山の十二科目からの勉強でございますから、参考資料見るだけでも大変なんですけれど。
 それを勉強さして頂きながら思うんですね。これだけのことを勉強さして頂くのだけれど、普通から言や、一年なり二年なりを、学院生活をして、そしてお道の教師としての、はいめいを受けるのですけれども。たった三日間位の短期間の間に、教師の資格を頂こうと言うのですから。当たり前のことだとは思いますけれど、これとてもですね、結局お道の教師を志せて頂くものが。
 これだけの勉強をして。何を分かり、何をさして頂くために、この勉強をするのかということなんです。そして、私はつくづく思うんですね。私、いわば朝の五時から十二時までの、ここの七時間の奉仕と、そすと晩、御祈念迄の二時間余りの、又は、三時間余りの奉仕と、いうなら、日に十時間余りの信心奉仕の時間がです。もう本当に有難い、いうならば、楽しいものである。
 久富先生が十二時に、ここに交代に見える時に、本当に交代したくない様な気がする。段々、時間が経ってくればくる程、いわば十一時、十二時という頃には、いよいよ私が有難い時である。結局、お道の教師が資格を取って、何を分からしてもらい、何を覚えさして頂くかというとです。いわゆる、お道の信心の中心であるところの御結界奉仕であり、お取次の神技なのである。
 金光大神お取次の道を譲渡さして貰い、取次者として、そこんところを分からして頂くことだけではなかろうか。御結界に奉仕さしてもらう、座らしてもらうことが有難うなる。そこにお道の信心の、いわば、難儀な氏子の助かりという根本は、そこんところにあるのじゃなかろうか。取次者としての値打ちというか、価値を作るためには、現在、私が、ここで味わってる様な、それを頂くためのこれではなかろうか、勉強ではなかろうかとこう思うのです。
 ですから、実をいうたら、私はそのことだけで、実は勉強は要らない様な気がする。この事だけで教師の資格を頂いてもいい様な気もするけれども、そこは又、そこで別ですけれども、煎じ詰めるとそうなんです。これだけの勉強をしているけれども、現在、私がここで、毎日味わせて頂いておる、お取次さして頂くことの有難さというものを身につけて、難儀な氏子の取次助けていくと言うことの喜び。
 そこに人生の生き甲斐というものを感じておれれる様になるために、私はお道の教師は、そうあらなければならないための勉強であると。ための試験であり学院であるということなんですね。先程今日は、長崎の前田さんが見えて、泊まっておられますが、今年七十二歳になられるそうです。もう必ず、とにかく椛目にお参りさせて頂くのは、拝み道も知らなければ、どうも知らんのだけれども。
 とにかく、只、親先生にお会いすることだけが楽しみだ、もう、お会いしたらそのまますぐ帰ってもいい気がすると。一緒にお夕食を頂きながらです。先生、私は、不思議なことが最近ございますと。去年頃からですけれども、本当に生かされて生きておるということをですね、しみじみ有難く思う様になりましたと。お食物の時間、食べ物の時間に神様頂きますと言うて合掌する。
 神様頂きましたとお礼を申し上げるとですね。もう、何か知らんけれども、涙がこぼれそうに有難い。もう、合わせておる手を早く離さないと涙がこぼれるから、可笑しいごとありますと。私は、年を取ったせいでしょうかとこう言われるのですよ。ですから、前田さん、信心とはそれなんですよと。拝む道が分らんでもいいんですよ、あれが金光様の信心はこうだと説明がでけなくてもいいのですよ。
 本当に生かされて生きておる事が分からせて貰い、この食物のおかげで生を頂いておるのだとこう思わせて頂いたらです、そのお食物が拝まなければおられん。只今から頂きます、只今頂き終わりましたと言う事のお礼をです、合掌して神様に有難うございますと、お礼を申さして頂いておると、その涙がこぼれる沸いてくるて。だからこの合掌しとる、この手を早くほどかないとその、涙がこぼれる様な気がしますと。
 年のせいでしょうかと、いいえ年のせいじゃないですよと、あぁたがそれだけ信心を身を持って、心を持って頂いていきよんなさることですよ。そこのところを頂かして頂くために、教えを頂くのであり、お参りをさしてもらい修行さして頂くのですよと言うて、お話したことなんですけれども。今日、私が、今、申しました、お道の教師としてのです、値打ち、値打ちというと可笑しいですけど。
 教師としてはどうあらなければならんか、何処を体得さして頂くかというとです、ここに、神前奉仕さして頂くことの喜びと、楽しみとを持たせて頂けれる、おかげを頂かして頂くためなんだ。こうして、皆さんが一生懸命信心さして頂いとるけれども、成程、神様のおかげで生かされているんだなあという、その喜び。拝まして頂くたんびに、そのお食物を頂かして頂いてです。
 頂きます、又は、頂きましたと、お礼を申し上げる時にです、不覚にも涙がこぼれる様にあるという。早くこの合掌しておる手をほどかないと、涙が本当にこぼれてくるという様な、最近、その体験を実感さして頂いておるけれども。年をとったせいだろうかと。いいえ、そうじゃないと。信心とは、もう理屈じゃないのだから。そこを分からしてもらうのだ、そこを体験さして頂くのだ。
 ためにお互いは修行さして頂いておるということになるのですよね。私が、例えば、検定の試験を百点満点取りましても、そして、道の教師の、いわば、肩書きを頂きましても。御結界奉仕をすることが、おっくうであったり、私が、我情我欲のために、例えば、私の一家なら私の一家が、生活なりわいたつために、私が金光様の先生になると言うのであったら、もうそれは。
 お道の教師としての値打ちはないのである。百点満点を取らなくてもです。そこんところを分からして頂くための、いわば信心であり教師にならせて頂くのであると言う事なんですね。理屈じゃないですとにかくやはり、結局結論致しますと、信心とは有難うならせて頂く稽古だ、然もどういう様なことの中にでも、そうだと言う事なんですね。
   どうぞ。